ワントク

ワントクとは英語のone(ワン)talk(トーク)に由来するビジン語で、同じ言葉を話す集団を意味する。

通報義務と守秘義務

平成17年7月19日、最高裁判所は、救急搬送された患者の治療目的で、同意が得られていないにもかかわらずカテーテルによる採尿を行い薬物検査を実施した行為について「医療上の必要性があった」として、医療行為として違法ではないと判示した。また検査の結果、覚醒剤成分が検出された場合、医師がこれを捜査機関に通報することは正当行為として許容され、医師の守秘義務に違反しないと明確に述べた。覚醒剤取締法上、医師や医療機関の覚醒剤使用の通報義務は課されていない。しかし、通報した場合でも守秘義務違反とはならない。つまり、法律は通報を「命令」も「禁止」もしていない中間的な立場を取っている。通報か秘密保持かは医療機関の判断に委ねられる。

 

先日、参加したワークショップの講義でそんな話を聞いた。

通報義務をとる治療者と守秘義務をとる治療者。どちらにもどちらの言い分、言い換えれば正義があるように見える。

この構図にボクは全体の安全を選ぶ保守と個人の思いを選ぶリベラルの終わらない対立を想起させられた。

 

ボクは思った。

治療者同士の正義の議論の先に解決はないと。

ボクは気づいた。

支援者たちの主張の対立の場に何故か患者がいないことに。

ボクは知っていた。

どんな事象も患者の権利という視点を入れれば物事はシンプルになるということを。正義はいつだって、治療者よりも患者のそばにあるんだ。

だけど…ボクはよく忘れてしまう。

やってあげたい気持ちよりも目の前の人の声を大事にしなければいけない姿勢を。

ボクは考えた。

治療者と患者の関係はどうしたら水平になるのかと。治療者の権威性をどうしたら削ぐことができるかを。

ボクは思い出した。

対話だろ。対話!オープンダイアログを。開かれた対話がここでも有効である可能性を。

 

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矯正職員のためのリフレクティング・ワークショップ参加して来た

ボクはいくつかの精神科病院と障害者の施設勤務を経て、今はゆうりんクリニックでソーシャルワーカーをしている
その間、覚醒剤で何度か捕まったことで数度の刑務所への出入りがあった
八王子医療刑務所と府中刑務所と水戸刑務所と…
だから塀の中のことはそれなりによくわかっているつもりだ

熱意のある新人職員ほど厳しく嫌な刑務官になっていく現場
楽しそうに仕事してる人なんていない
数えきれないほどの嫌な記憶
嫌な職員の顔は次々浮かぶ
それは嫌な個人の問題ではなくシステムのせい、つまりは国の問題
わかっている
わかってしまう
だからボクはどんどんアナーキーになっていく
例えば法務省が変わっていくためにいいとりくみをしようとしていると聞いても、舌打ちしてしまう

今日の研修会場は矯正協会
中野住まいだからここら辺は勝手知ったるご近所だ
この建物の前を通るたびボクは息を止めて走り抜けていた
刑務所の記憶がフラッシュバックしそうだから
足を踏み入れるのは今日が初めてでボクはこの灰色の建造物をまじまじと見上げた

中にいた時、ボクは常に考えていた
考えながら怒っていた
クスリの何が悪いのだろうと
クスリを使った人をつかまえて刑務所に入れて何の意味があるのだろうと
そのことについてひとり悶々と悩んでいた
悩みながらもボクはわかっていた
あなたたちが間違っているという事実を
ボクは正しいという真実を
ボクは誰かを教え諭そうと思っていた
論破できる場を求めてた
でも誰もそんなやつの話を聞きたいなんて思うはずがない
あのとき対話の場がそこにあったらどうだっただろう
論破という行き止まりの先のにある広い世界に出会えてたのかもしれない
あのふつふつとした理不尽を誰かとシェアしたかったなあ
もしもシェアされたらあの頃の理不尽はどんな形になったんだろう
本を読むことだけが楽しみだったあの時間に別の色をつけたかったなあ

囚人は仮釈をできるだけ長くもらおうと模範囚を目指す
全ての努力はそこに捧げられる
刑務所ではマイナスの言動だけがチェックされるから、迷ったら黙る
自分を殺すのが最善策なのだ
言葉が失われた場所
刑務所にリフレクティングを根付かせることは言葉を生む行為である
これはまぎれもない社会活動だ

罰を与えたがる風が強く吹く昨今の日本
対話文化が救いになればいいなあ
変わっていけばいいなあ
そんな風に思った




 

日本アルコール・アディクション医学会で話したこと

おはようございます
木津淘汰といいます
ソーシャルワークをしています
こんなアカデミックな場所なんて、いつ以来なんだろう。緊張を楽しみながら今ここにいます
ボクは川島さんと同じゆうりんクリニックで働いています
同じ職場からなんで二人が登壇するのかと思われる方もいるかと思いますが
事実、ゆうりんクリニックの成り立ち、理念、実践はほとんど川島さんが話してくれて…
だからたぶんボクが話さなければいけないのはボク自身のことなのかなあと思っていて…
簡単に自己紹介します
ボクはソーシャルワーカーです
ボクがこの精神保健医療の業界に入ったころ、精神保健福祉士という資格はまだありませんでした
福岡の病院で5年、沖縄の病院で2年ソーシャルワーカーとして勤務しながら、通信教育で社会福祉士精神保健福祉士の資格を取りました
その後、千葉に移り障害者の施設の運営を10年くらいやりました
仕事一筋だったと言って過言ではなかったと思います
仕事が好きでしたね。すごく
ボクにはもうひとつ好きなものがあってそれが覚醒剤でした
もちろん好きな相手とは長く続かないのが世の常、覚醒剤の使用で捕まってしまい、職場もクビになり刑務所に入った結果、路頭に迷うことになるわけですが、路頭に迷うというか、路頭すら失うと言ったほうがいいかな
そのときに一番痛かったのは、資格を失効してしまうことでした
資格あってなんぼの業界ですからね
その時はあわただしく波にのまれながら、時間が経って残ったのはシンプルな疑問だけでした
アディクション業界では、捕まることが最大のハームだという常識(でいいんですよね?)なはずなのに、それを啓発しうる専門職能団体ではそれが実践されてない(課題にすら上がらない)現実に直面し、シンプルにおかしいと思いました
それがアディクション問題について深く足を踏み入れるきっかけでした
以来、ボクは「処罰化が薬物使用者にとって一番の害悪であると信じるならば、全てハームリダクションの実現を目指すの者はそれを阻害すシステムにアンチの姿勢を持つべきだ」というコンセプトで活動しています
本当は「反体制的思想を内包すべきだ」と言い切りたいところですがアナーキーすぎて反感を買いそうなのでここでは止めておきます
アディクション支援は、直接処遇だけでは解決しない。支援者と名乗るのであればソーシャルアクション(社会活動)も忘れずにやって欲しい。そんな期待がボクにはあります
もしかしたらこれって過激な思想なのかもしれませんが
でも普段の現場では比較的マイルドというかオーソドックスでスタンダードなソーシャルワークをやっています
思想は過激でも実践は柔らかい方なんじゃないかなあ
そのあたりについては川島さんの話では触れなかったので付け加えたいなと
ゆうりんクリニックのもうひとつの売りにはオープンダイアログの実践があります
職場でも職員研修を毎月やっていますが、ハームリダクションとオープンダイアログ
この二つがどう交差するのか自分もあいまいなままでした
でも最近、こういうことかと思える体験があったのでそれを簡単に紹介したいと思います
ゆうりんクリニックで出会う依存症の方は、専門病院や回復施設、自助グループなんかを経験して(中には飛び出して)くる方も多く、というかそういう方ばかりで、その人もそうでした?
「もう10年も施設でさんざんミーティングやったんで施設には行きたくありません」
その方がシェルターでクスリを再使用したときはそう主張しました
ボクはその時一人で訪問していて、その話を聞きながら頭の中は…「どうしたらいいのだろう」というプランの作成に支配されていました
かろうじてこれはいかんと思えたのはきっとオープンダイアログの価値が少しだけボクに備わっていたからだと思います
再使用時の一対一の面談では、罪悪感に支配された患者がおのずと下の立場になる
理不尽なルールに苦しめられた自分がまたルールで誰かをコントロールしようとしている
入院、施設入所…などのアセスメントを省略したプランの提案は相手を枠にはめることになりかねず対等な関係ではない
ボクは今、たやすく彼を支配してしまう立場にいる
治療者の権威性をなくし水平な関係を目指すというオープンダイアログの価値が危険な関係に陥りそうな事態に気づかせてくれました
オープンダイアログはリフレクティングなどを使ったただの対話技法ではなく、価値であり社会活動であるという言葉がそこでようやく実践につながった瞬間でした
今は、毎日、それもできるだけ複数で訪問して彼と話しをしています。捕まるリスクのある外出は控えてくださいねということだけを帰りに一言添えて訪問は終わるんですが(このエクスキューズも必要なのかわかりませんが)毎日の訪問が管理的な意味合いを持ちすぎて保護室が地域にあるだけみたいなことにはならないように模索中です
解決を急がず中腰に耐えうる胆力を鍛えられています
オープンダイアログは、動きそうもない山を動かそうとする社会活動という名の野望と足元の現場をつなぐ概念と言うか価値というか…そこのところがまだうまく言語化できなないんですが、それを探しているそんな日常です

ボクはゆうりんクリニックのほかに、つくろい東京ファンとという困窮者支援団体、サンカクシゃという若者支援団体でも勤務しているんですが、どちらも制度の間、というか制度の対象にすらなっていない人達が多く(というかそういう人たちがそもそもの対象なのですが)、そこでは関わりにバウンダリーがないなと自分も自覚するような場面が多く、でもまあいっかというあきらめにも似た自負もあって、はざまにいる人たちとコミットするには専門性という安全圏からはみ出すことも時には必要になるんじゃないかとボクは思っています
川島さんもボクもたぶんゆうりんクリニックでソーシャルワーカーをしているというよりは、ソーシャルワークをするためにゆうりんクリニックを利用しているというスタンスです
でもこれってソーシャルワーカーとしては忘れてはいけないマインドだとは思いますが

この学会には組織の管理者であるドクターが多いかと思います
もしも職場にソーシャルワーカーいるならぜひぜひ放し飼いにしておいて欲しいなあと思います
その方が組織のためにも患者さんのためのも可能性が広がるはずです
そしてソーシャルワーカーの方々、これからも共に頑張っていきましょう
ご清聴ありがとうございました




学会で配られたバックの再利用(温故知新)

からっぽになりたくて

50の節目。
新しいことをやってみようと考えて、決めたのはSNSデトックス
たぶんきっかけは、どこかの有識者が「Xを一カ月やめてみたが、良いことしかなかった」とポストしていたのがずっと忘れられなかったから。(良いことしかないのにどうしてまた再開したのだろうと同時に思ったのだが)。

さて、そろそろアプリを消して3週間が経つが、すこぶる調子がいい。
具体的に変わったことが2つある。ひとつは本を読めるようになったこと。もうひとつはブログを書くことができるようになったこと。
ああ、なんだかきっとリカバリー。
インプットとアウトプットのスピード感が自分ペースでコントロールできるようになったことが要因なのではないかと自己分析している。
つぶやきで人と人との深いコミュニケーションなんて成り立つはずはない。
140文字なんかで、数年ぶりとの親との再会、一戸建ての購入、パートナーとの別れの危機、盛大なスリップ、捨て猫の迎え入れをまとめられるはずもない。
もっと言葉を尽くさなければ。
元来、日本語はとても豊か言語なはずなんだから。

なんてことを活動家仲間の大志郎さんに話したら、「使い方だよね」と、しごくクール。
まあな、アクティビストにとってSNSは手段ですからね。
さて、10月まであと数日。SNSに戻った有識者の気分をボクは後追いできるのだろうか。
社会とボク。どっちが大きく変わったのだろうか。


ジャケ買い

いつもならこんなポストをしていた気がする。

日常

ボクは洗濯が好きだ。

太陽が出てるのに干さないなんてもったいない。

だから布団カバーだって毎週どこかで洗っている。

その代わりと言ったらなんだけどボクは布団カバーを布団に結びつけるのが酷く苦手で…というか絶望ときている。
あの紐、何度引きちぎったことだろう。
だから洗うだけ洗って最後の仕上げは彼氏にやってもらう。
やつは手品のようにさささと手早く布団カバーを布団と一体化させる。

その代わりにボクはたまった洗い物を黙々と片付ける。

きれいになった食器に彼が料理を盛り付ける…

約束のないご機嫌な合理的役割分担。

約束なしでどこまでやれるかがこの共同生活の鍵な気がする。

約束なしの危うさがボクを居心地よくさせてくれる。

こんなんでごめんね。

 

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ナラティブを奪う人々(例えばボク)

広末涼子さんが傷害の疑いで逮捕・拘留されたニュースが騒がしい。

逮捕時の言動がエキセントリックだったようで、違法薬物を使用しているのではと世間は色めきたっていた。

ボクもこの報道に注視していた。できれば陰性であって欲しいと願いながら速報を追っていた。

願いは叶い薬物検査の結果は、アルコールも違法薬物もすべて陰性。

ボクはほっとした。

もしも覚醒剤陽性反応だったりしたら…

世間は考えることをやめてしまう。

シャブ中がやりそうなことだと思考を停止してしまう。

凝り固まった社会の固定観念が上書きされてさらに堅くなってしまう。

 

ボクはほっとしながら期待した。

違法薬物を使ってないのに「どうして」こんなことになってしまうのか。

世間が「どうして」の謎を入り口に広がっていく未来を。

想像力こそが世界の可能性だとボクは信じている。

ボクは広末涼子さんの人生を芸能界に搾取されてきた日々を想像した。

 

想像しながら反省した。

他人の人生をネタに軽々しく投稿してしまう自分の軽薄さにうんざりした。

薬物使用なんかより、他人のナラティブを搾取する罪でボクは逮捕されるべきなのかもしれない。

ボクには誰かのトラブルをボク自身の問題に重ね落とし込めるまで考え悩み続ける胆力がまだない。

 

誰だって拘留から解放されたら笑うでしょうよ

ドラッグの罪と罰と悪についてボクが思うこと(刑務所で書いた日記より抜粋)

薬の罪について考えるとボクはいつも混乱してしまう。

薬の害については「自分の体にあまり良くない」がすぐに浮かぶ。後は…捕まることくらいかなあ。それくらいしか思い当たらない。警察に捕まることが及ぼす害についてはもういくらでも、きりなく涙あり笑いありで語れるんだけれど…(これについては「100日後に収監されるボク」を参照いただければと:cubu.hatenablog.com)

自分の体を傷つけてどうして懲役なんだろう。その謎がボクをそこから前に進めなくさせる。

そんなとき中島らものエッセイを読んだ。なるほどと思わされた。少しすっきりできた。せっかくなんで転記してみる。

 

『人間はしばしば二元論の明快さの誘惑に負けてその罠の中におちいってしまう。二元論は明快であればその分世界の真実のほとんどすべてを取りこぼしてしまう。そうしたことが人間の歴史を狂わせてきたとも言える。たとえば、人間の善悪の二元論で考えるという考え方だ。そこには人間の実相はかけらもない。〜二元論に頼りたがる人間は時として「物質」にまで善悪を背負わせたりする。こうしたところの一番の顕著な例が、酒やドラッグに対する我々の感情だろう。酒については我々は長い歴史的関わりをもっているから善だ悪だのという人はあまりいない。ところがドラッグに関しては子供の頃から「恐るべき麻薬のとりこになった〇〇は廃人同様のありさまになって…」といった表現で我々は洗脳されてきた。「人間やめますか」といったコピーも我々がただの「物」であるドラッグに、善悪の概念を背負わせるという非常に幼稚な段階にあることを証明している。

もちろん問題はドラッグの方にはなく人間の精神の側にある。この関係は酒やコーヒーや煙草や塩、ストレスやジョギングやギャンブルや、その他あらゆる人間の受け入れるもの、そしてそれに対する人間の態度、この構図とまったく同じである。適応であれば薬になるが、過剰であれば毒になる。ときには死に至ることもある。構図は全く同じなのだが、決定的に事実を歪ませているのは個人の領域のものを国家が禁止している、ということである。あまつさえ、毎年大量の「犯罪者」、自分の健康以外の何ものにも害を及ぼしていない、不思議な「犯罪者」を大量生産している。それに禁止とすることによって、結果的に暴力団を肥え太らせている、という愚行を犯している。

昔、アル中になって死にかけた口出家がこう言った。「酒の悪口を言わないでくれ。悪いのは俺だ」。酒ならぬドラッグの場合、悪いのはドラッグでも個人でもなく、。国家と法律が最大の「悪」だということになる。』

 

とても沁みる文章だ。主張だ。哲学だ。現実だ。

どうにかして薬と害と罪と罰と、そして悪とを繋げて刑務所の生活に意味をもたせようとさせる法務関係者たちのむなしい努力を気持ちよくぶった斬ってくれた。

手元におきたくもあり、誰かに読ませたくもあり、じゃあ完コピしようとここにおさめた。

ドラッグは罰を受けるほどの罪ではないし、罰こそ悪だ。この文章はそんなボクらの本音の代弁である。

少しひらけてしまった。

 

https://x.com/shotslipdive/status/1730222640743280930?s=61

 

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薬物の危険性を知ってる中学生がこんなにいるって逆に怖いんですけど